理論感覚          ! もくじ へ
  人間には 感じる力がある
  心を 感じる力がある と博士は言います
  さて
 
  どこの どなたかは 存じませぬが 写真を撮られたら
  「 魂を抜かれる 」と言った人が居たようです
  この事は レンズ 屈折 感光板 など 科学的考察の賛美と共に
  原住民の無知さ を表す例として 語られる場合が多いようです
  しかしです この場合の写真とは
  原住民のかたたちが
  文明人から見れば 奇異な飾りや服を着て 裸に近い格好で並んでいる写真
  あるいは 並ばされている写真 です
  おそらく 多くの文明人達が その写真を 好奇の目で見て 嘲笑した はずです
  現地へ行った写真家も そこの人達を ものすごく軽蔑しながら さげすみながら
  カメラを 向けたはずです
  その欧米人至上主義による おごり高ぶった態度や さげすむ態度
  に対して 腹を立てた人は いっぱい居たはずです
  もしも 写真を撮られたら 人間としての誇りを 踏みにじられる 魂を けがされる
  写真を撮られたくない と 感じるのは 人間として当然でしょう
  しかし 逆らえば不利になります 虜囚や虐殺の憂き目にあった人もいたはずです
  褒美につられた場合も 写真に収まることは
  屈服
  その気持ちを「 魂を抜かれる 」と 表現したのは 誠にもって 適切な言葉です
  それは 人徳のある長老の言葉 かも知れません
  あるいは 口べたな子供の言葉 かも知れません
  どちらにしても 植民地の有益さに目がくらんで 人の痛みを感じない文明人よりは
  はるかに立派な人たちです
  もしも絵を描かいたならば
  百人が百人 同じ様な絵を描く大人の文明人よりも
  その物の気持ちや 置かれた情況を感じながら 描く絵の方が はるかに良いでしょう
  写実的に描くのみの文明人よりは はるかに良い絵を描くでしょう
  軽蔑されるべきは 人を踏み 感受性を捨てている 文明人の方 なのだ と
  言えるでしょう
  そして 多くの人たちが 善良な人たち までもが それに気づかないで あんのんと
  していた時代があった事も 心に留めて 自省するべきでしょう
 
  写真については現代でも どんな気持ちでカメラを向けるのかは重要です
  あこがれや 尊敬の念で 向けるカメラと
  ゴシップの記事用に 軽蔑の眼で 向けるカメラでは 意味が違います
  同じような行為でも 内面においては正反対である事が この世には多いのです
 
  人間には 感じる力がある
  心を 感じる力がある と博士は言います
 
  例えば
  ある人が 目下の人を 厳しく しかりつけたとします
   本当に相手を思う愛情により なされる場合もあります
  しかし この世は そんな善良な人だけ では無いのです
  弱い者を苦しめたい という ねじれた願望があって
  教育という建前で 上位の立場を利用して 正しそうな屁理屈を付けて いじめる場合も
  実在するのです
  この場合は いじめを認識してする場合と そうでない場合があるようです
   自分の理屈がいちゃもんである と知りながら 相手を苦しめる人 も居ます
  わずかな落ち度を大げさにしたり 落ち度が無いのに濡れ衣をかぶせたり する理不尽さを
  本人が自覚しながら いじめる という人です
  もちろん無意識には 良心の呵責かしゃくがあるのですが こんなやつは怖いです
   自分は正しい事をしている 相手のために良い事をしている と思い込んでいる人も居ます
  しかし無意識では 自分を強く見せて威張りたい とか
  弱い者をいじめたいとかの ゆがんだ願望があって
  さらに奥の無意識には 良心の呵責かしゃくがある こんな人も困ったものです
   そして
  規則違反を取り締まるという 取り決めを実行する事 だけに忠実な人もいるはずです
  この場合 規則が理不尽であっても無関心 相手の苦しみにも無関心
  という場合もあるようです
   四例上げましたけども 他にもあるはずです
  そして 心のまともさや ゆがみ方や 度合いや その他 個々の事例で違うので
  さらに深く 実体を見極める必要があります
  そして 人間には その見極める力がある と博士は言います わたしもそれを信じます
   愛によってなされた行為か 悪意によってなされた行為か
   を 感じる力が人間にはあります
  しかし理屈で ごまかされたり
  心の力の 大切さに気づかないで おろそかにしている日常の為に
  その力がにぶりがちです
 
  先生だから正しいはずだ とか 背広を着ているから誠実なはずだ とか
  正しそうな事を威張りながら言っているから 反論しずらい とか
  逆らうと もっと怖い目に遭いそうだから 従う方が有利だ とかの 情況に流されて
  相手の実体を正確に見抜く事が 出来ない場合も多いようです
 
  この人は わたしを騙そうとしているなぁ・・ とか
  この人は 心がゆがんでいて人を虐めようとしているなぁ・・ とかを
  うすうす感じながらも その自分の心の声を捨てている場合があるのです
 
  しかし 同じような情況で 同じような事を言っていても
  善意なのか 悪意なのかを 見分る目が心にある
  浅い理屈では 区別が付かない情況でも 感覚によって
  相手の心の実体を 感じとる事が出来る と わたしも思います
 
  しかしながら この現代の社会では この心の力がにぶりがちです
  多くの情報が あふれていて 起きてから寝るまで 次から次へと
  外部から目まぐるしく働きかけて来ます さらに自分自身も忙しく 動きます
  自分の心に対して 見つめる 耳を澄ます その大切な態度が欠けています
  感覚を大切にして 感覚を磨いていく習慣が 必要です
  さらに 心や状況や社会に対しての 理論も磨く必要があると思います
 
  例えば
  ある人に対して 嫌悪感や恐怖感を感じたとします
   本当にその人が 悪者である場合もあります
  しかしこの世には 少数派を弾圧する社会もあります
  思想 宗教 地域 外見 などの違いにより
  多数派が 少数派を 差別して迫害する社会があります
  その中にあって 少数派に対して嫌悪や恐怖を感じても
  その原因は そのゆがんだ社会に対する嫌悪感や
  反対すると 自分がいじめられてしまうと言う恐怖感が
  すり替わって弱者へ向けられたのであって
  もちろん弱者からの 正当な抵抗や 仕返しや その可能性も 恐怖を増加させるでしょうが
  その恐怖の 元々の原因は弱者の側には無いのです
  多数派の使う まことしやかなスローガンは きたない屁理屈です そして
  悪い社会で ゆがんで 溜まっていく鬱憤が 弱者へ向けられるのでしょうか
  理不尽な情況下で 迫害される側は たまったものではありません
 
  さて
  悪い権力が弱者を苦しめる情況は 今でも無いとは言えません
  会社で ごう慢な上司が ゆえなく弱者を苦しめる などの場合は
  上司に逆らうと クビになる などあって大変なので
  上司に対する嫌悪感や恐怖感を抑圧して 弱者の方へ 感情をすり替える
  そんなケースが実在するはずです
 
  強い感覚があっても それを誤解したら 真実とは逆の方へ行くかも知れないのです
 
  外的な圧力が心に作用していたり 内面に脅迫観念がある などの場合には
  考え方に偏りがあるので 感じた事を 間違って解釈する可能性が高いのです
 
  さらに現代社会では
  人間の心理の弱点を突いて 催眠的な情況を作り上げている場合が
  かなり多いので うかうか出来ないのです
 
  感覚を 誤解しないためには
  一方的な見方や考え方に囚われないで
  多角的な見方や 偏りの無い考え方が出来る必要があります
  感覚だけに頼って自立する事は 出来ないです
  感覚も 理論も 両方大切で 互いにおぎない 助け合う必要があるのだ と思います
  そして 磨いて 育てる 姿勢が大切なのだ と思います
 
 
                                ! もくじ へ