金子みすゞさん           ! もくじ へ
  山口県だったと思います
  母に育てられたのですね 父は出張中にお亡くなりになったようです
  母が本屋をしながら みすゞさんとみすゞさんの兄を育てたようです
  みすゞさんには弟がいて 弟が二歳の時に叔父の養子になったようです
  叔父は大きな本屋を経営していて支店がいっぱいあったようです
  弟は長男として つまり跡取り息子として育てられたようです
  母の営む本屋もその支店の一つでした
 
  みすゞさんは何不自由なく育ったようです 高等女学校卒
  成長したみすゞさんには文才があって
  二十歳のころ
  本店の近くの小さな本屋を任されていた時に
  投稿した詩が何度も雑誌に載ったようです
  有名な詩人にも大絶賛されたそうです
  
 
  しかし結婚が転機になったようです
  本屋さんの店員と結婚
  当時の結婚は 家父長と 男の間で決められる事が多かったようです
  女性の気持ちは無視されることが多かったようです
 
  日本国憲法 第24条
   婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、
   相互の協力により、維持されなければならない。
  この一文は アメリカの女性通訳の情熱により実を結んだそうです
   戦前の日本に住んでいた時に
   意にそわぬ結婚で苦しんでいる女性を何人も見たそうです
 
  しかし家長の叔父は良い人だったようです
  みすゞさんは縁談を断ることも出来たはずでした
  でも
  弟は 実の姉をいとこだと思っていたようです
  みすゞさんは 弟が養子になった事情を当初から知っていたようです
  そして口止めされていたようです
  弟への優しさと 従姉への思慕 は思春期に近づくと 難解な情況になったかも知れません
  文学について楽しく話し合える友人のように弟を見たとしても
  弟は 優しく文才のある従姉を慕う
 
  いとこの場合は四親等・・
  この情況をすっきりさせるために 思慕の念を断ち切るために 結婚
  したのかも知れないと 憶測をつなげて空想したら 失礼でしょうか
  みすゞさんが結婚を決意したのと
  弟さんが徴兵検査の書類で養子だと知ったのと どちらが先だったのでしょうか・・・
 
 
  二十二歳で結婚 少し経って夫は本屋を辞めたそうです
  みすゞさんは夫について行き
  二十三歳で娘さんが生まれ
  そして 極貧の生活に・・
  夫は生活費を入れずに遊んでいたようです
  持ち物を質入れして食費に・・とか
  そして 近所に紙片をもらいに行ったそうです
  何度も頭を下げて ちっちゃな紙をもらったそうです
  何度も頭を下げて 感謝して帰ったそうです
   昔は紙は貴重品で
   包み紙とか ふたとか ちらしとかは 捨てなかったようです
 
  子が飢える辛さ と 紙の無い辛さ と
  そして さらに
  みすゞさんは病気になっていたそうです
  夫が買春により性病になって みすゞさんにまで感染していたそうです
 
  昔は 抗生物質が無かったので 深刻な病気でした
 
   性病は男の方が症状が軽いようです 発見が早いので対処が早い
   特効薬が無いとしても 消毒による効果がある
   そして パートナーに早く伝えることも大切です
   女性の場合は 発見が遅れて 症状が重くなってから気付くようです
   特に梅毒は 昔は死を覚悟する病気でした
   今でも 感染から三年以上たった第三期以降の梅毒には治療薬が無いようです
 
   医学が進歩しても 早期発見 早期治療は大切なことのようです
   昔は無かったエイズも恐いですけど
   軽い性病から癌へ移行する危険も指摘されています
 
   もう一つ配慮すべき事に母子感染の問題があります
   胎児への感染
   出産時の赤ん坊への感染
   子供への感染
   現代でも出産までの母子感染による様々な問題が起きていて大変なようです
 
  みすゞさんも 娘さんに対して細心の注意をしたことでしょう
  傷口や粘膜に対して 膿や母乳などの心配をしたことでしょう
  眠る間も心配だったでしょう
  貧しい中での 結婚生活は ほぼ四年間だったようです
  娘さんの言葉を書き残した 日記のような文が遺されています
  ふうちゃんの言葉を『一つ一つが愛らしい。』と表現してつづられた
  この『南京玉』と題された手帳は
  子供から学ぶことが多くあること 子供は純粋な『創作』者であることを教えてくれます
 
  ところが この『南京玉』には例外的な一文があります
  『 ――― 一人になりし後、中絶せしを續く、』
  これは 娘さんを実家に預けていて 執筆を中断していた事について書いているようです
  しかし 誤解すると心臓が凍り付く一行です
  1994年放送の『知っているつもり』の番組内で流産についても言及されていたので
  もしかしたら文字が遺されているのかも知れません
 
  みすゞさんの詩作の活動は
  二十歳から 結婚相手に詩作を禁止されるまでの期間だったようです
  1923年の九月号からデビューしたようです
  当時 発表された作品は投稿作品として雑誌に載ったものが ほとんどようです
  『大漁』『お魚』の二作品は正式に掲載されたようです
  原稿料などは有ったのでしょうか
  1928年の二月号に『金子みすゞ』さんの名前があるので
  結婚後もペンネームを変えずに活動していたようです
 
  しかし結婚相手に詩作を禁止されてしまいます
  当時は男尊女卑の傾向がありました
  女性には選挙権が無いような世の中では
  男の身勝手は普通だったのかも知れません
  みすゞさんは憤慨したり落胆したりしたはずです
  でも 結婚相手が少しずつ良くなるとことに期待して 忍従したのかも知れません
  そして すでに体調的にも詩作が困難だったのかも知れません
  発熱とか頭痛とかが有ると 創作に打ち込むことは難しいはずだから
 
   ・ ・ ・
 
  みすゞさんの詩を読むと 何かが変化します
  この詞の心は自然の中に溶け込んで 生きて 居るのだと感じます
  今まで気付いていなかった優しい心がそばに 居ることに気付かされます
  強制的恫喝的暴力的なものは 実は短命で浅薄せんぱくで弱くて
  本当は強くて ふところが深くて大きくて 永遠なものは
  やんわりと ふんわりと いきぬいて そこかしこに 居るのかも知れません
  よわよわしくきえそうに見えても 優しい心は自然の中に生きて 在るのかも知れません
  
 
 
 
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